速水御舟 Gyosyu Hayami

40年という短い生涯を駆け抜けた天才日本画家
1894年明治27年1935年昭和10年

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23歳で日本美術院同人に推挙されるなど、若くから才能を認められ、40年の短い生涯をまるで予見するかのように貪欲に画風を変えながら、新しい日本画の表現に挑戦し続けました。細密な描写による象徴的世界を創出、琳派(りんぱ)の装飾性と写実との合体を図るなど、日本画の近代化を推進した。その歩みは真の美をつかみとろうとする限りない自己探求の道でした。


性別
男性
誕生日
1894年8月2日(木)
歿日
1935年3月20日(水)
出身地
東京
パブリック・コレクション
山種美術館
滋賀県立近代美術館
横浜美術館
青梅市立美術館
メナード美術館
足立美術館
静岡県立美術館
主な出来事
1894年明治27年

8月2日、蒔田良三郎の次男として浅草に生まれる。

1905年明治38年

市立育英小学校高等科へ入学。

1908年明治41年

松本楓湖の安雅堂画塾に入門。

1909年明治42年

師の楓湖から禾湖の号を授かる。

母方の祖母である速水キクの養子となる。

1911年明治44年

巽画会展に「室寿の讌」を出品、一等褒状。

同門の今村紫紅に従い紅児会に入会。

1912年大正元年

画号を浩然と改める。

1913年大正2年

紅児会が解散し、再興日本美術院展(院展)に活躍の場を移す。

1914年大正3年

号を御舟と改め、養子先の姓である速水姓を名乗る。

今村紫紅を中心とした美術団体・赤曜会を結成。

1917年大正6年

第4回 院展に「洛外六題」を出品。

日本美術院同人に推挙。

1919年大正8年

浅草駒形で市電に轢かれ左足切断の災禍に見舞われる。

1921年大正10年

年長の友人で援助者でもあった吉田幸三郎の妹と結婚。

1925年大正14年

軽井沢での滞在を元に代表作の一つ「炎舞」を制作。

1929年昭和4年

ローマ日本美術展覧会の美術使節として横山大観夫妻、大智勝観らと共に渡欧。

第16回 院展に「名樹散椿」を出品。

1935年昭和10年

3月20日、腸チフスにより急逝。

1977年昭和52年

「炎舞」「名樹散椿」が国の重要文化財の指定を受ける。

最終更新 2014年04月04日
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