伊東深水
時代が変わる近代美人画を追及し、流行や風俗も取り入れた美人画を描き続けた
1898年明治31年 〜 1972年昭和47年
東京深川に生まれる。印刷所の活版工として働き、13歳の時に鏑木清方に師事し、早くから頭角を現す。以後、挿絵や版画に取り組み、若干17歳で文展に入選する。大正11年、平和記念東京博覧会で受賞後、官能的で甘美な美人画を生み出した。時代と風俗は変わっても美人へのあこがれは不変であるとの考えにたって,美女を描きつづけた。帝展や文展で活躍する一方、青衿会などの画会を結成。戦後は日展を舞台として美人画の道を歩み、堅実な表現力と優美な描写で不動の地位を築いた。
年 | 主な出来事 |
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1898年明治31年 |
2月4日、東京深川に生まれる。 |
1907年明治40年 |
小学校3年で中退、看板屋に奉公し住み込みで働く。 |
1908年明治41年 |
東京印刷株式会社の活字工になる。 年方門下の中山秋湖に日本画の手ほどきを受ける。 |
1910年明治43年 |
時田禾湖(速水御舟)の「小春」を見て日本画家を志す。 |
1911年明治44年 |
縁あって鏑木清方へ入門。 |
1912年大正元年 |
第12回 巽画会展に「のどか」が初入選。 |
1914年大正3年 |
再興第1回 日本美術院展に「桟敷の女」が入選。 伝統的技法による新版画運動に参加。 東京印刷株式会社を退社。 |
1915年大正4年 |
第9回 文展に「十六の女」が初入選。 |
1916年大正5年 |
渡辺版画店から第1作「対鏡」を発表。 東京日日新聞・時事新報・国民新聞などに挿絵を描く。 |
1919年大正8年 |
結婚。 |
1922年大正11年 |
平和記念東京博覧会で「指」が2等銀牌。 |
1924年大正13年 |
第5回 帝展に女優川田芳子・岡島艶子をモデルにした「おしろい」を出品。 |
1926年昭和元年 |
清方門下の筆頭に擬せられる。 |
1927年昭和2年 |
大井町に深水画塾設立。 |
1929年昭和4年 |
第10回 帝展で「秋晴」が特選、翌年永久無鑑査となる。 |
1930年昭和5年 |
大森区池上本町に画塾を移し、朗峯画塾と改める。 |
1932年昭和7年 |
人物画の再興を目指し、青々会を設立。 |
1939年昭和14年 |
山川秀峰と門下を糾合し青衿会を結成。 |
1943年昭和18年 |
召集され海軍報道班員として4ヶ月にわたりシンガポール、セレベス、ボルネオ、バリ島などを巡る。 |
1944年昭和19年 |
4月、先年の召集の際に描かれた4000枚ものスケッチを「南方風物展」(日本橋三越)として一般公開。 |
1945年昭和20年 |
長野県小諸市に疎開。 |
1947年昭和22年 |
第3回 日展に「鏡」を出品。翌年、戦後復活第1号として日本芸術院賞を受賞。 |
1950年昭和25年 | |
1958年昭和33年 |
日本芸術院会員に推挙。 |
1972年昭和47年 |
5月8日、癌により逝去。享年74歳。 |