20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」と謳われ、緑あふれる世界を描き続けた画家であった。フォーヴィスム(野獣派)のリーダ-的存在でもあった。
- 性別
- 男性
- 誕生日
- 1869年12月31日(金)
- 歿日
- 1954年11月3日(水)
- 出身地
- フランス
- 関係のある主な作家
- ギュスターヴ・モロー(師)
年 | 主な出来事 |
---|---|
1869年明治2年 |
12月31日、フランスのル・カトー=カンブレジに生まれる。 |
1890年明治23年 |
法律家を志していたが、盲腸炎の療養中に絵画に興味を持ち、画家に転向する決意をする。 |
1891年明治24年 |
画家になることを決意し、反対する父親を説得してパリに行く。アカデミー・ジュリアンに入学。 |
1892年明治25年 |
ボザールへの入校は許可されなかったが、熱意を評価した教官ギュスターヴ・モローから特別に個人指導をうけた。 |
1897年明治30年 |
カイユボットコレクションの印象派作品に触れ、関心を寄せる。この頃ピサロと知り合う。 |
1898年明治31年 |
アメリー・パレイルと結婚。新婚旅行でロンドンに行き、ターナーの作品を見る。コルシカ島とトゥルーズにそれぞれ半年ほど滞在、明るい南仏の光に接し、画風が変化したといわれている。 |
1899年明治32年 |
ヴォラール画廊からセザンヌ「水浴する三人の女」、ゴッホの素描などを購入する。この頃セザンヌの影響を強く受ける。 |
1900年明治33年 |
経済的に苦しくドランとともに万国博覧会の装飾に参加する。ドライポイントによる最初の版画を手がける。 |
1904年明治37年 |
ヴォラール画廊で初の個展が開かれる。夏をアンデパンダンの指導者的存在シニャックらとともにサントロペで過ごす。 |
1905年明治38年 |
『豪奢、静寂、逸楽』をアンデパンダン展に出品。サロン・ドートンヌでドラン、マルケ、ルオー、ヴラマンクらと同じ部屋に展示され、その様子が批評家ルイ・ヴォークセルによって「フォーブ(野獣)の檻」と呼ばれる。 |
1906年明治39年 |
ドゥルエ画廊にて2度目の個展を開催。ガートルード・スタイン宅でパブロ・ピカソと知り合う。 |
1910年明治43年 |
サロンドートンヌに『ダンス』と『音楽』を出品する。ミュンヘンのイスラム芸術展を見る。 |
1912年大正元年 |
モロッコ、タンジールへ旅行。翌年ベルネーム・ジュンヌ画廊でモロッコ滞在の成果を発表する。 |
1918年大正7年 |
ポール・ギョーム画廊にてピカソと2人展を行う。ニースに改めて部屋を借りる。 |
1920年大正9年 |
アンリエット・ダリカレルをモデルに作品を描く。「オダリスク」を主題とした作品が増える。 |
1921年大正10年 |
ピッツバーグで開かれたカーネギー国際展に招待される。 |
1930年昭和5年 |
アメリカへ旅行。この年バーンズ博士から財団の建物装飾(壁画『ダンス』)を依頼される。 |
1947年昭和22年 |
テリアードから『ジャズ』が刊行される。新設されたパリ国立近代美術館にマティスの重要な作品が収められる。 |
1948年昭和23年 |
ヴァンス、「ル・レーブ(夢)」近くに建立されるドミニコ会修道院のロザリオ礼拝堂の設計と装飾と手がける。 |
1950年昭和25年 |
第25回ヴェネチア・ビエンナーレで大賞を受賞する。 |
1951年昭和26年 |
ロザリオ礼拝堂の献堂式が行われる。東京国立博物館、ニューヨーク近代美術館などで回顧展が開かれる。 |
1952年昭和27年 |
切紙絵『ブルーヌード』シリーズに着手する。生地カトー・カンブレジにマティス美術館開館。 |
1954年昭和29年 |
ニューヨークのユニオン教会のためステンドグラスの薔薇窓をデザインする。(これがマティスの最後の仕事となる。) 11月3日、ニースにて逝去。 |